テンプレート:記事名の制約 テンプレート:JIS2004 テンプレート:ActorActress 宮﨑 吾朗(みやざき ごろう、1967年1月21日 - )は、日本のランドスケープアーキテクト、映画監督。公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事。映画などのクレジットでは宮崎 吾朗(みやざき ごろう)とも表記する。
株式会社ムゼオ・ダルテ・ジブリ代表取締役、三鷹市立アニメーション美術館館長、株式会社マンマユート団社長などを歴任した。
来歴
生い立ち
1967年、宮﨑駿の長男として東京都にて生まれた[1]。自宅を引越したため、1970年からは所沢市にて育つ。子供の頃から父のアニメーション企画などを見学していて、押井守とは度々顔を合わせており、現在でも交流がある。なお父親の作品よりも押井の作品を評価することが多い。幼少時は藤子不二雄の漫画などを好んで読んでいた。
その後、埼玉県立所沢高等学校、信州大学農学部森林工学科(現・森林科学科)を卒業した。高校では山岳部、大学では児童文化研究会に所属した。森林工学科を選んだのは自然環境やその保護・保全についての勉強をしたかったから。その学科のある大学の中で信州大学を選んだのは高校時に山岳部であり「山があるのは信州だしなあ」と思ったから[2]。
ランドスケープアーキテクトとして
その後、ランドスケープコンサルタントの株式会社森緑地設計事務所に入社し、建設コンサルタント・環境デザイナーとして公園緑地や都市緑化などの計画・設計に従事した。当時の会社は若く「めちゃめちゃ」だったため、これを何とかしようとしていたら2-3年で仕事をほぼ一人前にこなせるようになったという。都内の児童公園や総合公園の設計、岡谷湖畔公園の一部設計、工業団地の景観設計などを行った。
その後、三鷹の森ジブリ美術館の総合デザインを手がけ、運営会社である株式会社ムゼオ・ダルテ・ジブリの代表取締役に就任した。三鷹の森ジブリ美術館竣工後は、2001年10月1日から2005年6月23日まで三鷹市立アニメーション美術館の初代館長を務めた。また、2001年10月には株式会社マンマユート団の初代社長にも就任した。2004年度の芸術選奨にて、芸術振興部門の文部科学大臣新人賞を受賞した[3]。
アニメーション演出家として
2006年7月に公開されたスタジオジブリの長編アニメーション映画作品『ゲド戦記』では、挿入歌『テルーの唄』の作詞とともに、脚本・監督を務めた。アニメーション、劇場用映画ともに初監督作品となった。本作では、アニメーターの仕事であるレイアウトでも参加している。
また、2008年、父が長年アニメ化を希望していて果たせなかった堀田善衛の『方丈記私記』等の作品について、アニメ化するとの仮定の基でのイメージボードを、吾朗を中心としたスタジオジブリ・スタッフが制作した。このイメージボードは、「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」として神奈川近代文学館に展示された。2011年7月、自身の監督作品二作目となる『コクリコ坂から』が公開された。
家族
父は、アニメーション作家、映画監督として活躍している宮﨑駿である。版画家の宮﨑敬介は弟である。2008年8月、長男が誕生した。
略歴
- 1967年1月 - 誕生。
- 2001年10月 - 三鷹市立アニメーション美術館館長。
- 2001年10月 - 株式会社マンマユート団社長。
- 2006年7月 - 『ゲド戦記』公開。
- 2008年10月 - 「堀田善衞展 スタジオジブリが描く乱世。」公開。
- 2011年7月 - 『コクリコ坂から』公開。
賞歴
- 2005年3月 - 芸術選奨新人賞。
作品
映画
CM
- 読売新聞「杉浦茂のふうせんガムすけ」(2009年) - 監督
音楽
- テルーの唄(2006年) - 作詞
脚注
テンプレート:脚注ヘルプ
- ↑ 「プロフィール」『映画「ゲド戦記」監督日誌 - 30profile』スタジオジブリ、2005年12月13日。
- ↑ 「第5回 映画監督 宮崎吾朗氏(農学部卒)」 - 信大人百科
- ↑ 「芸術選奨文部科学大臣新人賞」『平成16年度芸術選奨 受賞者及び贈賞理由』文化庁。
関連項目
参考文献
- 宮崎吾朗監督に聞く「このままじゃ終われない宿命を受け入れあえて挑む」(2011年7月8日、朝日新聞朝刊全面広告8、9面、映画・コクリコ坂から、川上量生と対談)
外部リンク
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