原 徹(はら とおる、1935年12月26日 - )は、福岡県北九州市出身の男性のアニメプロデューサーである。福岡県立八幡高等学校を経て、早稲田大学卒業。1960年代より1990年代にかけて東映動画(現・東映アニメーション)、トップクラフト、スタジオジブリでアニメーションのプロデューサーを務めた。『おもひでぽろぽろ』で、プロデューサーを対象に贈られる映画賞である藤本賞の第11回特別賞を受賞している。
略歴[]
東映時代[]
大学在学中に、しとうきねお、園山俊二、東海林さだお、福地泡介らとともに早稲田大学漫画研究会の創設に参加。「漫画サンデー」に4コマ漫画を描く。漫画家の道は断念し、大学を卒業すると、1959年に東映動画に入社。企画制作の仕事をし、1965年のテレビアニメ『宇宙パトロールホッパ』を始めとして、『ひみつのアッコちゃん』『魔法のマコちゃん』『さるとびエッちゃん』など少女向けテレビアニメの製作を担当。1968年には、制作が中断していたアニメ映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』に制作課長としてプロデューサーを務める。『太陽の王子 ホルスの大冒険』は原の同期入社の高畑勲の初監督作品であったが、原の役回りは予算とスケジュールの製作管理の強化のため、会社側の要求を伝えるというものだった。しかし倍近くかかった制作予算のオーバーと、興行が不入りだったことから、責任を問われ、上司の関政治郎制作部長とともに後に東映動画を去る遠因となった。後に原は、テレビアニメ全盛時代になって、東映動画がオリジナル企画で挑戦せず、漫画原作作品ばかりになったことに失望感を示している。
トップクラフト・ジブリ時代[]
1972年に東映動画を退社して、アニメ制作会社トップクラフトを設立。東映動画時代の1966年にアメリカとの合作テレビアニメ『キングコング』と『001/7親指トム』を担当したことから、トップクラフトでは、主にアメリカやヨーロッパとの合作作品を制作し続けた。1984年にアニメ映画『風の谷のナウシカ』を監督することになった東映動画時代の後輩宮崎駿が制作母体としてトップクラフトを拠点とすることを依頼。合作は制作条件がいいものの、作った作品が日本国内で見られることがなく欲求不満を感じていたスタッフのためにも原はこれを受諾して、トップクラフトで『風の谷のナウシカ』は制作された。『風の谷のナウシカ』の興行は成功に終わり内容も評価されたことから、気を良くした製作の徳間書店は、引き続き宮崎駿作品の製作へ意欲を見せ、宮崎の活動の拠点となるアニメスタジオを設けることを決意。1985年にトップクラフトを解体する形で、徳間書店の出資により、株式会社スタジオジブリ設立。徳間書店社長の徳間康快を社長に据え、原はスタジオの責任者として常務取締役に就任した。1986年のジブリ第1回作品『天空の城ラピュタ』から、1991年の『おもひでぽろぽろ』までジブリ作品のプロデューサーを務めた。ジブリ時代の原はかねてからプロデューサーとして、ジブリの大作主義をハイリスクとして懸念を示していたが、宮崎が立案したジブリの新スタジオ建立案を巡って、経営圧迫を理由に反対。堅実な経営を目指した原だったが、宮崎に賛同した徳間康快社長、鈴木敏夫らと袂を分かち、1991年にスタジオジブリを退社した。
関連項目[]
- 東映動画
- 高山文彦
外部リンク[]
- スタジオジブリの歴史 - 鈴木敏夫によるジブリ史。原徹のジブリ退社の事情が綴られている。
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